kotono in midnight

見た目はFabulous、中身はpolitical

故郷を奪われるということが、どういうことなのか私はまだまだ全然わかっていない。

こんばんは、Kotono in midnightです。

 

私は、正直ガザの人々に対して、早くみんなその場から逃げれたら良いな…早く逃げさせてあげてと祈っていた。

でもこの祈りは、あまりにも的外れだったと気づいたんですよね。

 

まず、「逃げる」ということについて。

なぜガザで暮らす人々が、逃げなければならないのか。逃げるってどういうことか、そもそも逃げるという言葉が適切かどうか。

そこから考える必要がある。

 

10月、緊急イベント上映で「ガザ 素顔の日常」を観た。

感想の一部を抜粋

「若者は自由のために全てを犠牲にする」
「私たちは鉄の塊じゃない。生身の人間だ」

日本にいるとガザは、崩壊している灰色の街並みの印象が強い。実際そうなっているが、市井の人々は元々鮮やかな色彩感覚を持ち、本来街の彩りも豊かなんだと思う。
海沿いの小さな小さな街。東京よりももっともっと小さな。

 

映画が「素顔の日常」をハッキリ記録し、私はそこからガザの素顔を感じ取ることができた。

新土さんのTwitterのスペースでも、パレス千ナの明るさや人の温かさが知られていないとおっしゃられているのを聞いた。

 

「早くみんなその場から逃れられたらいいな」?

過去の自分の言葉を責めるつもりはないが、勘違いも甚だしい。本当に謝れるなら謝りたい。

 

街も人も破壊される。自分たちの国を、街を、命を、あまりにも多くを、奪われている。

それで逃げるとは。

「若者は自由のために全てを犠牲にする」、それは、自由を奪われること=全てを奪われることと、ガザで生きる人々が、まだ若いひとりひとりが、骨身に染みてわかっているからではないか。

 

故郷を奪われるということが、どういうことなのか私はまだまだ全然わかっていない。

野菜のつやめき、海や川のきらめき、人の目の輝き。あまりにも卑怯に、恐ろしい腕力で奪われること。

私のルーツは高知にもあり、それこそ個性は違うが野菜のつやめきや海や川のきらめきをいつでも心から取り出して眺められる。

それはその場にいなくても、今もそこにあると安心しているから、できることなのかもしれないな。

 

なぜガザで暮らす人々が逃げなければならないのか。尊厳を前に、虐殺を前に、それでもまだ掲げられる理由などないはずだ。

逃げるってどういうことか、そもそも逃げるという言葉が適切か。追いやられている。逃げる意思がある人はどれだけいるだろう。「家族と一緒にしにたかった」と泣く子どもに、逃げてと伝える権利はあるか?

 

悲しくて泣いてしまう。

 

まだまだ言葉が足りない。私の言葉が足りないままでも、パレス千ナが解放され、じっくりと言葉が紡げたら良いのにと、今はただそう祈る。

私の言葉が足りるときはきっと来ないけれど、それでも一刻も早く、虐殺やめてくれ。