こんばんは、Kotono in midnightです。
4月12日から公開中の映画「プリシラ」感想レビュー書きます!
ソフィア・コッポラ監督の最新作。そして、最高傑作。非常にお熱なこの作品、好き勝手に言い放題させてもらいますゎょ。
人のことを決めつけたり、ストーリーを自己解釈したりがあるし、物語の結末やセリフに触れます。誰のことも配慮せず、突っ走りたいと思います。
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まずプリシラ登場のファーストカットが良い。
「この人はもう出会ったが最後、説明しようのない魅力に溢れている」と思わせる稀有な少女を撮らせたら、ソフィア監督の右に出る者はいない。
何故ならソフィア監督自体が、かつてそういう少女だったから。
そして今回プリシラに必要だったのは、エルヴィスの母に似ていること。エルヴィスとプリシラは歳の差が10歳。試写の上映後トークで「エルヴィスはプリシラと話が合うから惹かれたんじゃないか」という話があった。私は全く同意しない。人と話す姿勢が合う。寄せては返す呼吸が、まるで音楽のように声が、聴こえる。内容はたいして重要じゃない。どういう波長か、和音か。そしてその視線をどう求めるか。それだけ。
でも、本当はそれすら、どうでもよかった。
プリシラは、エルヴィスの母の面影を纏っていた。
エルヴィスがプリシラに惹かれた理由。私はこれしか考えられない。2人が急接近した日、エルヴィスはプリシラに母を亡くしたことを打ち明け、「母がすべてだった」とこぼす。母のために建てた家に早く帰りたいと嘆く。
なんと弱い男だろう。14歳の少女にとって、その弱さは甘い蜜でしかない。
母のために建てた家で、母に似たプリシラを囲う。
なんと弱い男だろう。それでもそんな男に支配される幸せは、確かにあった。
プリシラ。長いまつ毛にアイライン。
彼にどれほど自分を塗りつぶされても、あなたは真実を見たでしょう。
プリシラ。彼が選んだ洋服とヘアスタイル。
どう着飾ろうが、あなたはあなたを見つけたでしょう。
愛する人に支配されても、あなたは自分で選んだベルボトムのデニムを履いて、旅立つことができる。
ソフィア監督は、ある意味この世のリアルを非常に誠実に描いているのではないかと思う。何を隠そう、セレブのリアルを。
セレブに囲まれて生きてきた監督の眼差しは、いつも驚くほど静かだ。そして誰のことも滑稽には描かない。哀れな男のことも、間違いだらけの女のことも。
いつもいつも、監督は静かだ。それでもいつも、真ん中にいる。ジェーン・カンピオンが「ソフィア・コッポラを侮ってはいけない」と世間に対して鋭く指摘した。ソフィア監督は、主人公や登場人物を俯瞰で見る。しかし、演者も監督も、強烈に監督を意識する。彼女のことを、知りたくなる。人を惹きつけて、自由にさせる。私が憧れるセレブそのもの。
セレブを知った気になる。胸の奥に、少しの興奮。
ひとたび監督を意識すれば、ストレンジャーではいられなくなる。気づけばレンズを向けられているような、遠くから手を振られているような気持ちになる。注意深く、穏やかに。
監督を知った気になる。高揚感が、シャッター音に呼応する。
華やかな世界を優美に魅せる天才。そこに私は虚しさを感じない。それでもそもそも美学を持って生きた人間の人生は、どうしたって虚しさがつきまとうのだ。
逃れられない虚しさはスクリーンに横たわり、それが美となり音となる。
本作は、静かに燃える青い炎のような情熱に満ちていながら、本質は白い薔薇の花言葉にある。結婚式を白い薔薇で埋め尽くしたのも、エルヴィスの願いが込められているから。
だけどプリシラ、あなたはそれを枯らすことなく、自分の車で発車したのよね。
いびつな愛の形だなんて、私は絶対に言わない。ソフィア監督の眼差しは、プリシラに真っ直ぐ向いていたから。
私はきっと、これからもソフィア・コッポラに憧れて、愛して、近づけない。