kotono in midnight

見た目はFabulous、中身はpolitical

「日記を書く/誰かを書く」感想記録日記

こんばんは、Kotono in midnightです。

21日のイベントの感想記録日記。

 

この日は植本さん、金川さん、滝口さんのイベント「日記を書く/誰かを書く」に行ってきた。3人の日記をまとめた「三人の日記 集合、解散!」の刊行イベント。

私は今、ここでの日記と誰にも見せずに書く2~3言の日記を並行して書いていて、御三方の話に興味津々。実際、とても面白い話を聞けて文章を書くことに前向きになれた気がする。

 

一番に、言葉が大事にされながら話が進むなぁ、と思った。

私も言葉を大事にしたい。私はこの人達よりもっと手前の段階にいる。それは当たり前なんだけども、なんというか…この実感は私をすごく自由な気持ちにしてくれる。

滝口さんが「金川さんの文章はスリリング」と表現されていたことにすごく納得。実験的であり、自分自身も実験対象にしてるという印象。

 

日記じゃないと書けないことがあるという話。日記だからこそ発見できる自分の気持ち、思考回路。今ちょうど私もそれを思っているところ。その面白さに気づき始め、掘り下げたいと思い始めている。

誰にも見せない文章を書き続けることがすごく大事だとも思い始めている。ここからが楽しみ。自分のためだけの文章は、メンタルのチューニングみたいな気がしてる。

過去に書いた文章を読み返すと、別人が書いたような感覚になることは私もよくある。

自分が変化しているということを実感すること。

1人目の質問者の方がすごくいい質問をしていたけど、書き忘れた。確か植本さんが「もうこれまでのことは書き残したから死んでも大丈夫」と話していたことに関連する質問。

「書くことは脱皮」という表現をしていた。私もその脱皮をしてみたい。皮を分厚くして、身動きがとれなくなっている感覚がある。

でも、書くことを、その皮を引き裂くことにできたなら、逃れられない痛みが伴うに違いない。

 

文章はいきなり終わっても良い、他人から見たらそんなにいきなりじゃない。自分はそういう文章を読むと面白いのに、それがなかなかできないという話。

何か一言締めの言葉を探してしまうことは私もある。でも別になくても良いんだよなと。

書くスタイルみたいなものは変わってもいいということ。叶恭子様「自由でいいのよ」が頭によぎる。

 

自分は正直さを素直さでラッピングしてるかもしれない。私は全然自分のことを書いてきていないと思う。正直だったことは、多分、全然ない。でも、素直であろうとは一生懸命に努めてきた。

だからBGMzineに残している文章に嘘はない。その上で正直さも突き詰めてみたい気がしてくる。事実と正直さは、別。正直に書くことは難しい。話すことも。

植本さんが過去の自分の作品を見返せないと話しているのを聞いてとても驚いた。つまりそれは正直さの副作用だ、と思った。

 

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滝口さんが目を瞑ってしまってるけど、植本さんと晋吾ちゃんの笑顔が可愛い。