kotono in midnight

見た目はFabulous、中身はpolitical

「aftersun/アフターサン」私の最も美しい勘違い

こんばんは、Kotono in midnightです。

久々の更新。

 

最近ずっと楽しみにしていた「アフターサン」という映画を観て、かなりくらっている。

観た人の感想を見ていると、この映画の温かさや愛おしさが感情豊かに綴られていて、じんわりと、しかし強烈に感極まる。それでも私にとってこの映画は鋭すぎて、まだあまりにも胸が痛い。

 

とんでもない映画体験をしてしまったと思う。

 

私はカラムに似すぎていると思った。カラムは私だった。生きている時代も人生もまるごと違う。それでもなぜこんなにも私なのかと、スクリーンに映る彼をみつめながら呆然としてしまった。トルコの夏が、私たちには眩しすぎる。

 

「幼い頃の私を思って泣いちゃうかもな、お父さんやお母さんのことを考えてメソメソしちゃったりしてね。」観る前の私の期待。

でも観ている間、正直ほとんど両親のことは頭に浮かばなかったし、幼い頃の自分なんてもっと頭になかった。今の自分とカラム、少しソフィのことしか考えられなかった。没入、とはこのことを言うのだと後から実感した。

もちろんこの映画の象徴的な音楽も、自分に向けられたかのような感覚だった。

 

子どもの何気ない質問に答えられない。

心配なあまり語気を強めて教える護身術。

ロマンを感じてしまって身の丈に合わないものを買う。

むせび泣く背中。

やめて欲しかったことを受け入れられない。

ちゃんと守りたくて、日焼け止めを丁寧に。

ちゃんと、愛してるってわかってほしくて。

抱きしめる。最後のダンス。

 

しかし私に似すぎているカラムは、大人になったソフィが記憶を補完しながら想像してスクリーンに蘇った人であり、本当のカラムは誰も知らない。私は架空の人物、もっというと監督が記憶をなぞったり想像して描いた人物を、「私だ」と思った。

これは映画が引き起こす、最も美しい勘違いだと思う。

なんというパワーなのか。

 

私は、この映画が引き起こした痛みを何も忘れたくないと思う。何度でも観て、痛みを刻みたい。

夜の海、ゴウゴウと激しく泣くような音をゆっくり聴かせてくれて、ありがとう監督。

この映画を作ってくれて、ありがとう監督。

この映画がこの世にあるというだけで、私はもっと世界を、自分を知りたいと思える。

 

「何でも話して良いんだ。真剣だよ。覚えていて。」

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