こんばんは、Kotono in midnightです。
張り切りがちな土日が終わりました。土曜日の
ロンリネスシネマクラブ vol.9『トムボーイ』
について、レポートを書き記します。
忘れがたい幸せな夜でした。
まず、お互いを尊重し合い、温かく愛おしい時間を一緒につくってくれた参加者のみんな、潟見さん、本当にありがとうございました。
私から少しこの映画のあらすじを。
フランスの郊外。10歳の夏休みに家族で引越して、新しい生活を送ることになったロール。そこで偶然出会った"リザ"という女の子に名前を聞かれ、自らをミカエルと名乗ることから、家族には内緒のまま男の子として新しい環境で生きていくことに。リザからの熱い視線を浴びながら、どんどん"男性性"を習得していき、活気づくミカエル。新しい仲間との関係性を築き始めた矢先、妹にミカエルと名乗っていることを知られてしまい…。
みんなで一緒に、様々な視点を通して愛に満ちた深い解釈(理解とも言いたい)を共有でき、『トムボーイ』は「ミカエル(ロール)がトランスジェンダーか否かよりも、人と関係性を築いていくことを重要視して描いている」作品なのではないかと話し合いました。
そして監督のセリーヌ・シアマは、人と人の関係性を描く中で、言葉以外の情報や表現で私たちを「観客」ではなく物語の内側へ迎え入れてくれるのだ、と改めて心の中でうっとりしてしまいました。
実は日本の公式サイトでは、
- 女の子(ロール)が男の子(ミカエル)になりすますという物語
- 新たに知り合ったリザたちに自分を男の子だと思い込ませることに成功する
という言い回しで利用・翻訳されています。
私はこの映画を初めて観たとき、かなりこの表現に引っ張られてミスジェンダリング的な見方をしてしまっていたな、とこの夜改めて思いました。私にはミカエルが"なりすましている"とは全く思えなくなっていたからです。
みんなには元々この話は事前に伝えておらず、また、国際トランスジェンダー追悼の日前日ということもあり、「トランスジェンダーの主人公として観ていた」という参加者が多く、"なりすましている"と感じた方はおらず、逆に私がなりすましていると感じなくなった理由も質問を受け、一緒に紐解いてもらいました。
また本国・フランスでのセリーヌ・シアマ監督のインタビューなどでは、"フリをする"という訳し方ができる、その行為に対して肯定的な印象を抱く言葉使いをしていることも調べてもらい、翻訳についてみんなで議論もしていました。
日本でエンタメ作品を受け取り手に届ける上で、カテゴライズに縛られず受け取り手を信じる発信がなされてほしいと心から思います。
そして、話すうちに「私はみんなに何を話しても良さそうだな、私もみんなの話を何でも聞きたいな」と感じるようになり、それは、ここにいる誰もが"自分の感想や考えはみんなに共有するためのもの"であり、説得したり主張したりという意図が全く感じられないからなんだろうと考えていました。
「言葉を共有している」と感じたと友人から感想をもらい、この表現はとてもしっくりくるなと後になって反芻しています。
そして今回、参加者の中に学生さんで大学のトランスジェンダー迎え入れに関する活動をされてる方々もきてくれていたので、活動・運営内容もお聞きし、みんなでトランスジェンダーの権利について考える時間もつくらせてもらうことができ、すごくありがたかったです。
比較的発言が控えめな方から「映画を観てすぐの感想はもちろんあったけど、皆さんの話を聞いてぐらぐら揺れていた」という声もあり、その揺れこそがまさに人と関係性を築く上での豊かさなのだ…と心の中で噛み締めていました。
ひとりひとりがご自身の言葉で話してくれる中で、観る視点の角度が違っていたり、ラストの解釈が違っていたりと、たくさんの"違い"が生まれながら溶け合っていくように感じる場面が多々ありました。その違いはとても温かいものに感じられ、ひとりひとりが熱い存在感に満ちており、やわらかい空気をひしひしと感じました。
そんな中で、深い共感やハッとする鋭い洞察もみんなのものとなるような感覚がありました。
私は「確かにな」と「ほんとそうだね」しか言ってなかった気がします。もう、嬉しくって…。笑
個人的に反省点もありますが、それはまた今後に活かすとして、今回みんなでセーフティでヘルシーな場作りをしていただけて、感謝の気持ちでいっぱいです。
みんなありがとう。
次回は12月17日㈯の夜、冬の訪れと共に抱きしめたいレズビアン韓国映画『ユンヒへ』について話しましょう。
ご参加お待ちしております。